――Kazha_archive/private_memorial_draft.txt
3. 消失と喪失
1999年の春、彼女は忽然と姿を消した。
日本清浄会が混乱し、求心力を失い始めたのはその直後のことだった。
いや、正確に言えば、団体の実質的な崩壊は彼女の失踪が引き金だった。
どんなに活動が活発でも、どれだけ構成が整っていても――
私たちは、彼女という存在がいなければ一枚岩でいることができなかった。
一葉は、運動の「理念」ではなく「存在」で支柱となっていた。
だからこそ、その不在は思想の死と同義だった。
最後に彼女と言葉を交わしたのは、3月下旬。
都内で行われた非公開の幹部会議の帰り道。
私は、駅までの道を彼女と二人きりで歩いた。
その夜の彼女は、いつもより静かだった。
いや、静かというより、なにか“距離”があった。
会話は途切れ途切れで、彼女の目はどこか遠くを見ていた。
改札の前で別れ際に立ち止まり、ふと私を見て、こう言った。
「ありがとう、これからもよろしくお願いします」
彼女の言葉には、確かな終わりの予感があった。
だが、私はそれを受け取る準備ができていなかった。
その翌日から、彼女は姿を消した。
会合に現れず、自宅はもぬけの殻、連絡先を知る人間は誰もいなかった。
学生登録も存在せず、清浄会への辞退届が匿名で投函されていた。
誰もが「疲れたんだろう」「逃げたのかもな」と無責任に口にした。
私は、動揺していた。
それから数日後、私の元に一通の封筒が届く。
宛名も差出人もない。けれど封を切った瞬間、私は文字を見ずとも理解した。
彼女の筆跡だった。
「私は消えます。探さないでください。」
便箋は一枚だけ。
まるで彼女自身が“自分の消滅”を統制していたかのように。
私は、信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
“消える”という言葉を使ったその手紙すら、彼女らしくないと思った。
だが、周囲はあっさりと飲み込んだ。
「もともと危うい人だった」
「強すぎた理想は、自分を壊す」
「もともと謎が多い怪しい人だった」
そんなありきたりな言葉で彼女の不在を語り、
そして皆、何事もなかったかのように日常へと戻っていった。
だが私は違った。
彼女が消えて以降、私の“日常”など存在しなかった。
私は狂ったように、過去の記録を探した。
団体の議事録、会報、写真、演説録音。
それらをすべてコピーし、自室の壁に貼り付けていった。
そしてある時から、インターネットの画像掲示板や災害アーカイブ、事件報道の写真に至るまで漁るようになった。
彼女はどこかで生きているのではないか。
いや、もしかすると、そもそも“人間”ではなかったのではないか――
その考えが、私の中に忍び込んできたのは、その頃だった。
彼女に似た影を、私は何度か見た気がした。
空襲後の瓦礫の中、学生運動の群衆、昭和の駅前風景の中。
まるで歴史の裂け目に、彼女が“点在”しているかのように。
私の思考は、そこから戻ってこなかった。
そして――その妄執が、私にある“再会”を引き起こすことになる。
それは決して、幸福な再会ではなかった。
